レポート39 / 2017.10.05
放浪作家

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作家のなかには、何度も放浪を続けるタイプの人がいます。何かを成し遂げるため、知人を訪ねてまわるため、そして、あてもなく。目的は実にさまざまですが、1度やるとクセになり、何度も旅を繰り返すことが多いようです。いったい、どんな経緯でそうなってしまうんでしょうか?
今回は国内外の作家5人に焦点を当てて、それぞれの奔放な足取りを辿ってみることにしました。

種田 山頭火「死ぬために放浪」

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エリア:西日本中心&1度だけ東北まで遠出

フリーダムな詩とラーメン屋の名前で有名な種田山頭火は、山口県の良家の生まれ。幼少期は「しょうさま」と呼ばれ溺愛された。ところが10歳のころ、父親が選挙活動や芸者遊びに夢中になり、見かねた母親が井戸に投身自殺。このトラウマから、何をしてもやる気が出なくなってしまった。
20代で結婚して子どもも授かったのに、
「最初の不幸は母の自殺、第二の不幸は酒癖。第四の不幸は結婚、父親になったこと」
と暴言を吐いている。第三を飛ばすあたりなかなか適当だが、こんな気持ちで結婚がうまくいくはずもなく離婚。熊本で古書店を開くも失敗し、親族も次々と亡くなり、心機一転上京したと思ったら関東大震災に巻き込まれ、結局熊本に戻っている。まさに踏んだり蹴ったりである。

もう知らん。42歳になって山頭火はキレた。ベロベロに酔った状態で路面電車の目の前に飛び出して人々に迷惑をかけたあと、引き取られた先の寺で出家を決意。色あせた法衣と地下足袋姿で、放浪の日々に突入する。もちろんこんな状態で俳句が五・七・五だとかそんなルールを守るわけもなく、作風はますますカオスになっていった。
尊敬する尾﨑放哉ゆかりの地を訪ねるため、亡き母の巡礼のため、旧友に会うため…。何かと理由をつけて西日本中を駆け巡り、ついでに四国八十八箇所を踏破。ところがはりきりすぎてすぐに目標をなくし、虚しさのあまり自殺未遂してしまうのだから皮肉なものだ。

「死に場所を探す旅に出よう」
60歳を目前にたどり着いたのは究極の境地だった。生まれ故郷の山口を発ち、無心で半年ほど歩き続ける。気がつけばその道のりは岩手県平泉にまで達していた。結局これといった死に場所は見つけられなかったが、かつてない長旅に、心は少しふっきれたようだ。帰りに立ち寄った福井県永平寺では代表作「永平寺3句」を残し、最後はガラにもなく船に乗って楽している。
最晩年にやっと見つけた死に場所は、温暖な気候で知られる松山の一草庵。「一木一草と雖も宇宙の生命を受けてひたすらに感謝の生活をつゝけてゐる」と晴れやかな心境を日記に綴った。

金子 光晴「夫婦げんかしたので放浪」

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エリア:東南アジア~パリ

詩人・金子光晴は放浪のエリートだ。1895年、愛知県で酒商の家に生まれると、2歳のときに実父が事業に失敗。親の胸に抱かれて放浪するという華々しいデビューを飾っている。
目のぱっちりした光晴は居候先でたちまち人気者に。かわいさを武器に裕福な家庭との養子縁組をゲットするが、女性に囲まれ、さんざん女装させられたせいで性癖は大きく歪んだ。その後東京に移住して、「最後の浮世絵師」小林清重に習うなど先進的な教育を受ける。少々のびのびと育てすぎたようで、11歳で早くも渡米を企てて家出している(さすがに失敗)。

海外には行きたいが、働く気はない。そんな風にふらふらしていた光晴のもとに転機が訪れたのは、20代半ばのころだった。養父が亡くなり、現在の価値で約3億円もの莫大な遺産が転がり込むことになったのだ。欲望の鬼に、金棒が手渡された瞬間である。
光晴は手始めに同人誌や処女詩集『赤土の家』を出版し、鉱山の事業に手を出して失敗。その後何ごともなかったようにヨーロッパへ遊学する。帰国後は突然現れた実父から「発明がしたいんだ」と金をせびられ、遺産はわずか2~3年で底をついた。

そして1924年、運命の女性・森三千代と出会う。似たもの同士のふたりは何の計画性もなく結婚&妊娠。家賃を数ヶ月滞納するほどの極貧生活に陥った。さらに借金をして上海へ渡り、魯迅をはじめ多くの文化人と刺激的な日々を送るが、刺激が強すぎたのか、三千代が美術評論家と不倫する最悪の事態に。慌てた光晴は「仲直りの旅行をしよう!」とパリ行きを提案する。もちろんお金はない。誘う光晴もすごいが、ついていく三千代も三千代である。
戦前の海外旅行は過酷そのものだった。香港、シンガポール、ジャワ島、マレー半島。時には水だけで空腹をしのぎ、船に乗れば安いデッキ席にしがみつく。旅費は光晴が絵を描き、画展を開いてなんとか工面した。まさか幼いころに習った絵がここで活きるとは…人生はわからないものだ。
そしてついに、ふたりは花の都・パリにたどり着いたのである。

多くの作品を残した金子光晴。糞尿すら美しく描く表現力は高く評価され、「どくろ杯」「ねむれ巴里」「西ひがし」の旅行記3部作を残した。息子曰く「ただのクサいジジイ」だったそうだが、とにかくモテまくり、葬儀にまで若い女性が押し寄せたという。

林芙美子「男を追いかけて放浪」

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エリア:東京(『放浪記』)、東アジア~シベリア鉄道横断~パリ・ロンドン 、北京、樺太など

林芙美子、日本が世界に誇る「放浪女芸人」である。出生地は下関・北九州と2つの説があるが、本人は「旅こそが古里」と言っているし、「尾道が古里」と言ったこともあるし…もはやどうでもいいのだろう。代表作は森光子が2000回も演じたことで知られる『放浪記』。
8歳のとき、父が芸者と浮気したのをきっかけに母子で家出。労働者があふれる炭坑街に移り住むと、化粧品やアンパンを売って家計を手伝った。このころの生活環境をコンプレックスにせず、むしろアイデンティティにするところに彼女の強さがある。

19歳になると大学生の恋人を頼って上京する。卒業後の結婚を夢見て、作家の女中、薬の整理、女工、産婆見習い、銭湯の下足番、露天商…とさまざまな職を転々とする。結局その恋人とは破局するが、帰郷せず、さまざまな男の元に身を寄せて出版社に原稿を持ち込み続けた。
このころの日々をまとめたのがのちの『放浪記』である。芙美子の金運と男運は壊滅的だった。キャベツを主食にしてみたり、俳優にいいように働かされたり、土間で詩人に投げ飛ばされたり。そんな生活が本になったのだからおもしろくないわけがないのだった。

1931年、すっかり人気作家となった芙美子は単身パリを目指して旅立つ。当時は満州事変が起きたばかりできわめて危険な情勢のなか、かまわず朝鮮に渡り、満州を抜け、シベリア鉄道に飛び乗った。理由はふたつ。ひとつは金子光晴のバイタリティに触発されたこと。もうひとつは、好きな男を追いかけるためである。結局恋は実らなかったが、現地では気を取り直して別の男と恋をする。
彼女はその後も北海道・樺太・北京など各地を放浪し、新聞社の特派員として戦地にも帯同した。放浪を続けたのには、金当てで近寄ってくる親族を避ける意味もあったという。

かつて「苦労を売りにする作家」と揶揄された芙美子は、戦後に「どんな仕事も厭わないハングリーな作家」と評価を変えた。そして40歳、とうとう終の棲家を建てる。自ら200冊の建築書を読み漁って間取りを決め、建築家・山口文象に依頼するこだわりっぷり。その理想は「東西南北風が吹き抜ける家」だった。確かに、タバコを1日50本吸う彼女にピッタリである。

ジャン・ジュネ「悪事を尽くして放浪」

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エリア:ヨーロッパ

1910年、パリで売春婦の母の元に生まれたジャン・ジュネは、生後7ヶ月で捨てられる。「ジュネ」はフランス語でエニシダを指す。ジュネ自身は「俺が捨てられた野原に咲いていた」と笑えないジョークを飛ばしている。
養護施設から田舎町の里親に拾われたジュネは、早くから同性愛に目覚め、神を空虚な存在と見るようになった。物心ついたときから他人の関心を買うように盗みを働き、15歳で精神鑑定施設に入れられかけ、脱走。その後は少年刑務所を転々とし、アウトローのエリート街道を進む。

18歳になると外国人部隊に志願入隊。屈強な兵士たちに囲まれてシリアやモロッコを旅するなかで、「人に受け入れられる甘い喜びを知った」と意味深な台詞を放つ。次の任務が待ち遠しい。また外国へ行きたい。が、なかなかお呼びがかからない。しびれを切らしたジュネは軍隊を一時除隊し、徒歩でフランスを縦断してバルセロナへ。情熱の国で窃盗や男娼を大いに満喫するが、再び軍隊に戻ったときには毎日が物足りなくなってしまった。再び一人旅へ。同時に、フランス当局から脱走兵として追われる身になる。
フランス南部のニースから偽造パスポートで国外へ逃亡し、行く先々で受け入れ拒否・強制送還にあい、ピンボールのようにヨーロッパ中を移動した。愛、性、窮乏、暴力、裏切りに満ちたそんな日々はのちに『泥棒日記』の名前で出版され、大ヒット作となった。端的にいえば「男色家の老人に快楽や暴力を与えて金品をまきあげる日記」である。

その後、しばらく刑務所を放浪。逮捕歴が10回を超えたあたりで詩集『死刑囚』を自費出版する。ためしに大御所作家・ジャン・コクトーに誤植だらけのまま送りつけてみたところ大絶賛。その名はフランス全土に知れ渡ることになる。1948年にはついに大統領の恩赦を獲得。晩年にいたるまで小説、戯曲、映画などを精力的に制作し、政治問題にも取り組んだ。

ジュネの放浪は、仕方なくというより、かなり意図的なものだった。悪の仮面を被り、冷ややかな目線で自分を操作するように動く。なにしろ監獄をすごくエロティックなものとして崇めて陶酔しているのだから、悪事を止められるはずがないのだった。

ヘンリー・チャールズ・ブコウスキー「酒と女と放浪」

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エリア:アメリカ全域

アメリカを代表する詩人・ブコウスキーは、ロサンゼルスで幼少期を過ごした。のちに放浪癖を発症するタイプとしては珍しく両親と同居していたが、軍人だった父親の虐待に加え、ひどいニキビのためにまったく友だちができず、休学して本を読む毎日を送った。そんな鬱屈した日々については、のちに『くそったれ!少年時代』という本に詳しく書かれている(ちなみにブコウスキーの本、邦題のセンスが抜群である)。
文学少年・ブコウスキーは次第に作家を志すようになるが、執筆環境は最悪だった。父親に見つかれば窓から原稿を捨てられるし、ドイツ人の母親はヒトラーに夢中。まもなく家出を決意する。

バスに乗り、一路ニューオリンズへ。酒と労働の日々が始まった。裸電球ひとつのバラックに泊まるような泥臭い生活はブコウスキーの性に合っていたようで、しばらくは地図を開いて適当に指さした場所へ移動するなど、気ままな年月を過ごした。
やがて、コツコツと書いていた小説が雑誌『ストーリー』に掲載されることが決まった。やっとデビューできる。さっそくフィラデルフィアに移り住み、ゴキゲンで酒を飲んだところ、風貌がワイルドすぎたせいかFBI捜査官に誤認逮捕され、留置場にぶち込まれている。

20代も半ばに入り、いまいちぱっとしなかったブコウスキーは、作家の夢をあきらめようと決意する。荒れた生活を止め、実家暮らしで郵便局員として働こう。ところが、そんな願いをよそに人生は激しく揺れ動く。恋人や両親の死、結婚と離婚。長年にわたる大量の飲酒がたたって血も吐いた。やがて真人間には戻れないと悟ったころ、開き直るようにして創作の日々へ向かうのである。言葉は悪いが、ヤケクソというやつだ。
そうして書かれたのが『詩人と女たち』。簡単にいえば「こんなロクデナシでもセックスできるぜ」という作品だった。彼の感性からはいつしか余計な飾り、文学性といったものがそぎ落とされていて、破天荒かつ爆笑必至という独自の作風ができあがっていたのだった。
好き勝手に生き続けておきながら、自分の墓には「DON'T TRY(「やめておけ!」)」と書き残す数奇な人生。人は彼を、“パンクな酔いどれ野郎”と呼ぶ。

今回取り上げた放浪作家には、「家庭環境が複雑」「詩を書く」「自費出版する」などの共通点が見つかりました。小さな部屋で作品を生みだす作家もいれば、自分自身を作品にする作家もいるんですね。
最近の作家でも放浪経験のある人は少なくありません。何でもあるこの時代になぜ旅を選ぶのか。ぜひいつか、現代版もまとめてみたいものです。